誉田別之命は、八幡様として信仰される神様です。皇室による崇敬篤く、源氏一族をはじめ武人の神様として、また広く地域鎮護の神様として人々の信仰を集めています。
応神天皇は、母・神功皇后とともに大陸の文化を積極的に取り入れ、古代日本の文化向上、発展に尽くされました。そのため文化の神様として広い御神徳を持っておられます。
誉田別之命は、神功皇后の胎内にいらっしゃるころからの御神慮を発揮されたと伝えられ、母子の絆が深いことから、母の慈愛の中、子が健やかに成長されることを願い、人々の参拝が絶えません。
宇迦之御魂命はお稲荷さんとして知られております。「宇迦」は穀物・食物の意味で、また別名である「稲荷」の御名の通り、稲・穀物の神様です。
生命の源である食物であることから農業の神様としてあがめられるだけでなく、米一粒が稲となり、何倍もの実りをもたらすことから、商売繁盛の御神徳があり、諸産業の守護神として、あらゆる職業の人々に信仰されています。
当社の創建は、建長年間(1249〜1255)に、豊前(現在の大分県)の宇佐神宮よりご分霊を勧請したと伝えられています。荏原郡池上村大字徳持の住民の守護神として崇敬され、古くは社の管理をしていたのが徳乗院(御旗山真勝寺)であったことから、御旗山八幡宮とも称されました。もともとは、徳持の本村地区(現池上7丁目曹禅寺付近)に鎮座しておりましたが、明治39年(1906)に池上競馬場建設のため、千本松と呼ばれていた現在地(旧大字徳持809番地)に遷座しました。
明治41年5月に再建されると、同年9月15日に上宿地区(現池上図書館付近)に鎮座しておりました稲荷神社を合祀し、八幡神社の社名を德持神社に改称いたしました。
大東亜戦争中、惜しくも社殿が空襲により失われたため、焼失を免れた境内末社を本殿跡に移転し、昭和23年(1948)4月、德持神社奉賛会を設立。24年8月に仮社殿を建設し、29年8月には社務所を建設、同年境内を整備・植樹しました。
昭和34年5月、社殿復興のため德持神社復興会を設立、39年2月起工式、同年8月に上棟祭、40年8月に正遷座祭が斎行され、昭和41年9月3日に竣功奉祝祭を行い、八幡造の社殿が復興されました。
創建から約750年、今も変わらず池上徳持の地に鎮座し、人々の暮らしをお護りいただいております。
当社拝殿前には人々の健康・長寿に御神徳がある健康歩道がございます。拝殿向かって右にある健康石と左にある長寿石の間を「8」の字を描いて素足で歩くことで、敷き詰められた那智黒石が足の裏を刺激し、血液循環を改善、内臓機能の活性化を促します。約12メートルの健康歩道をお歩きいただき、健康長寿を社前にて御祈願ください。
- ①まず裸足になり、拝殿向かって左側の長寿石を反時計回りに廻ります。
- ②拝殿向かって右側の健康石を時計回りに廻ります。
- ③再び長寿石を反時計回りに廻ります。
- ④正面より御神前に進み、健康・無病息災を祈りましょう。
▲写真奥(拝殿向かって右)が健康石、手前(拝殿向かって左)が長寿石。敷石は衷心より内側は強い刺激、外側は弱い刺激になっています。
德持神社の徳持はかつての地名から名付けられたものです。地域の範囲は現在の池上3丁目のほぼ全域と、4丁目の一部地域、6丁目の全域、7・8丁目のほぼ全域、東矢口1丁目と千鳥1丁目の一部地域に当たります。
古代からの幹線道路であるひらま平間街道が地区を東西に横切っており、古くからの集落であるのは間違いないようですが、残念ながら地名の由来については分かっていません。
江戸時代の始めにはかんがい灌漑用に六郷用水が引かれ、江戸後期に編まれた『新編武蔵風土記稿』によると、徳持村の戸数は60軒ほどで水田が多く営まれていたとの記述が見られます。明治5年(1872)の統計には戸数54戸、人口302人と記録されており、22年に池上村と合併し池上村大字徳持となりました。
なお写真の人物は東京競馬会々長の加納久宜(ひさよし)子爵
池上競馬場設立最大の功労者です
静かな農村に競馬場建設の話が降って湧いたのは明治39年のことでした。当時の日本は富国強兵策のもと、軍馬の不足解消と資質改良を目的として海外から優秀な種馬を輸入するとともに、馬産農家の戸数と収入の増加を図るため、競馬を運営する競馬会の設立を奨励しました。それに伴って設立された東京競馬会は、競馬場用地を当時競馬が盛んだった横浜と東京の中間地点にあって、平坦な土地が広がり、比較的用地の確保がしやすかった徳持に求めたのです。
建設工事は6月に着工され、右回り一周1マイル(1609m)、幅約33mのダートコースを作り、玉座や皇族席も備えた約6000人収容のメインスタンドが設けられました。総工費13万5000円(現在の約13億5000万円)をかけた工事は11月には完成し、当時日本最大級といわれた威容が水田地帯の中に現れました。
推測になりますが、コースは德持神社旧社地である曹禅寺付近を中心として、北端は池上7丁目16番から6丁目12番の辺り、東端は6丁目19番から26番、南端は7丁目29番から30番の境の辺り、西端は8丁目13番から17番の辺りを通る楕円を描き、メインスタンドは現在の池上駅の南側、池上6丁目11番から7丁目14番にかけての位置にあったのではないかと思われます。
ちなみに一着は北郷騎手騎乗の牝馬「クモイ」 勝ち時計は1分50秒99でした
開場は11月24日。爽やかな秋晴れに恵まれ、「西の方富士の白雪は朝日に輝き出でゝ馬上の勇士を励ますものゝ如し」と新聞は伝えています。栄えある初開催レースは皇族方や陸軍大臣、農商務大臣、アメリカ大使など多数の来賓を迎え、4日間に渡って賑々しく行われました。日本人により公に馬券が発売されたのは初めてのことで、徳持はいわば現在に続く商業競馬発祥の地であるともいえます。当時、池上線はまだ開通しておらず、観客は大森駅か蒲田駅から人力車で競馬場に向かいました。押しかける人々のために道は人力車で数珠つなぎとなり、池上の街は人出で非常に潤ったそうです。
池上競馬場の当初の入場料は一等席が3円(現在の約3万円)、二等席が2円、馬券も一枚5円からと非常に高額で、ドレスコードまで設けられていましたが、それにも関わらず人々の競馬熱は異常な高まりをみせました。明治41年春のレースでは4日間44レースで202万円(現在の約210億円)もの売上高を記録し、数々の社会問題を生じる事態となったため、10月に政府は馬券の発売を禁止し、競馬の規模を縮小する政策をとることとなりました。その結果、東京競馬会は他団体と合同して43年6月に目黒競馬場を使用することが決定され、盛況を誇った池上競馬場もわずか4年足らずで廃絶となりました。なお、その遺構は昭和11年(1936)に目黒蒲田電鉄不動産部が分譲地として造成を行うまで荒地として残り、子供たちの恰好の遊び場となっていました。
大正11年(1922)10月6日には、池上本門寺参拝客の輸送を目的に、池上電気鉄道によって池上線が蒲田駅から池上駅まで引かれ、翌12年には雪ヶ谷駅まで延伸されます。この頃から宅地化が進み、大正15年には池上町大字徳持に昇格。昭和元年には戸数286戸、人口1313人だったのが、6年には戸数811戸、人口3256人に激増しています。
昭和7年東京市大森区が成立すると大字徳持は再び独立し、池上徳持町となりますが、昭和10年代中頃には町の西側に第二京浜国道が建設され、徳持は分断されてしまいます。さらに大東亜戦争末期には空襲で家々の多くが焼かれ、町は壊滅的な打撃を被ることになります。
戦後経済成長に伴って徳持は復興し、昭和42年には戸数6384戸、人口17178人を数えるまでに発展しますが、残念なことに同年12月1日をもって、住居表示法施行により歴史ある徳持の地名は廃止されてしまいました。